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久々です 3

父の葬儀は、兄が喪主となり7月18日に執り行われました。

兄は奈良県の大和郡山市で働いています。父の具合が悪いと聞き、帰省中でした。朝帰省し、その日の夕方に亡くなりました。亡くなった瞬間は、一緒に帰省していた義姉を一度奈良に帰すため、駅まで送っているところだったそうです。
もう数日は持つだろうと思っていたようですが間が悪かったみたいです。

火葬場のスイッチは去年に引き続き兄と押したのですが、例によってあっさりと号令がかかり心の準備が整わないうちに押すことになりました。実父だろうとぶれない兄の態度にはある意味感服しました。

骨拾いは、母、兄、義姉、私の四人で行きました。

父は水泳の選手だったせいか、骨太で、祖母のときとは対照的に、かなり形が残っていました。大腿骨、顎回りなど、ほぼそのままでした。数年前に肩にボルトを入れる手術をしていたのですが、それらしきボルトも確認できました。

一段落したあと、母、兄、私の三人でソースカツ丼を食べにいきました。この三人で外食するのはおそらく20年以上ぶりだと思います。思春期のころから長らくの間、兄とはあまり仲良くしてきませんでしたが、祖母や父が、また家族の仲を取り持ってくれたような気がします。



病院で太って亡くなった祖母と、自宅で痩せ細って亡くなった父。
どちらがよかったと比べても仕方ないですが、父はどちらかといえば幸せな逝き方だったように思います。

また「孝行をしたいときに親は無し」という言葉がありますが、自分が親になって思うことは、親孝行とは、子供たちが健康で幸せに暮らしていることだ、と感じるようになりました。

しかし、これは孝行らしいことをほとんどしてこなかった私の都合のよい解釈かもしれません。
posted by saiyajin 02:32comments(0)|-|





久々です 2

そして、今年7月16日ですが、今度は父が亡くなりました。

死因は肺がんです。

春頃から急に食欲が無くなったようで、みるみる痩せていたのですが、元々糖尿を患っており、その関係かと思って診療には行っていませんでした。

ほとんど食事を採らなくなってしまい、漸く診てもらったときには、時すでに遅し、末期の肺がんで、余命1ヶ月ということでした。

抗がん治療も意味がないということで、緩和治療だけ行うということになりました。
本人には、告知せず、肺炎と伝えていました。

しかし、何かを感じたのか、間もなく家に帰りたいと言うようになり、先生と相談の結果、在宅看護となりました。

家では母と二人暮らしなので、母は随分負担を強いられていたようですが、24時間、朝も夜もなく献身的に看護していました。

父が家に帰った当初は、アイスクリームやヨーグルトを口にする事もあったようですが、最後の一週間くらいは、小さな氷のかけらや、水を含ませた脱脂綿を口に含んでなんとか水分を取っているような状態でした。

最終的に体重は三十数キロ程度まで落ちたのではないかと思います。痩せ細り、まさに骨と皮だけとなっていました。



7月の初め頃は、つらそうではありましたが、まだ意識もはっきりしていて、短い時間であれば会話もできました。
妻からは、「話ができるうちに感謝の言葉を伝えておきなさい」と言われていました。

頻繁に見舞いには行っていたのですが、あらたまって感謝の気持ちを口にするのは、なかなか躊躇いがありました。
照れ臭いのと、いきなりこんなことを言うと死期を悟ってしまうのでは、という心配もありました。

「今日も言えなかった・・」なんて日が何日か続いたある日、「今日は言おう。明日には意識が無くなってしまうかもしれない。」とひとつの決意をし、父の元に向かいました。

適当な世間話、子供のことなどを話した後、「お父さん、今まで大きくしてもらって、ありがとうね。」と言ってみました。
父は「そんなことは、当たり前のことや。」と言ってニタッと笑ってくれました。帰りの車のなかでは、涙が止まりませんでした。

父はそれから一週間ほどで亡くなりました。享年73歳でした。

posted by saiyajin 01:48comments(0)|-|





久々ですが。

突然自分のブログを読みたくなり、読み返していました。歳を取ると記憶力が衰えます。日記とは、記憶の補完です。
かろうじてIDやパスワードを覚えていたので、久しぶりに更新してみます。

前回の更新から1年半以上経ちました。その間に、身内が二人亡くなりました。その事を書きます。

昨年の3月28日、祖母が逝去しました。享年88歳。
ずっと病院に入っていて、随分前からコミュニケーションはほとんど取れなくなっていました。
胃ろうと言って、お腹に穴を開けて胃に直接栄養を送り込む処置をしていたのですが、そのせいか、遺体はかなり浮腫んでふっくらしており、大分若返ったようにさえ見えました。
七年くらい前に脳出血で倒れて以来、一度も家に戻ることはありませんでした。
治療後、意識は一応戻りましたが、認知症が発症しており、私が誰なのか、もうわかっていない様子でした。
自分のなかでは、七年前、救急車で搬送されたとき、祖母は居なくなったも同然でした。

両親が共働きだった私は、おばあちゃん子でしたので、随分様子が変わってしまった祖母の姿を病院に見に行くのが気が進まず、お見舞いには、合計で10回程度しか行かなかったと思います。

それでも、息子が産まれたときには、車椅子に座った祖母に抱いてもらい、写真も取りました。
後から気づいたのですが、携帯カメラの設定が低解像度になっていて、鮮明な写真が撮れていなかったのは悔やまれますが、まあ、そんなもんでしょう。

火葬場のスイッチは、私と兄とで押しましたが、兄は結構あっさりと「はい、せーの」みたいな感じで間を置かずプッシュを促したので、躊躇ったり感慨に浸る暇はありませんでした。

骨拾いは、孫四人で行きました。
老人で、長年寝たきりだったため、骨密度も大分低下していたのでしょう。焼かれた後の姿は、ほとんど原型はなくなっていました。
posted by saiyajin 01:11comments(0)|-|





smartphone

携帯をスマホに変えました。
いやはやテクノロジーの進化は凄まじい。
こんな道具、藤子F不二雄先生でも想像できなかったんじゃないかと思います。
思わず、久し振りにブログを更新してみたくなるほどの興奮でござる。もちろんスマホからの更新でござる。専用アプリも用意されていて快適だ。

スマホのアイデアはスティーブジョブズなんでしょうか。天才的な発想ですが、それを実現してしまう技術力が凄い。
まあ、私のキャリアはドコモなので端末はAndroidですが。
しかし、こんな高性能な道具が機種変更たったの4800円だなんて、世の中どうなっているのやら。
ただ、バッテリーの持ちが悪いのが難点。
まあ、そのうち、振動発電とソーラー発電の併用とかで充電不要になる日も近いと思います。

とにかく、びっくりしたの巻でした。
posted by saiyajin 02:16comments(0)|-|





大震災

東北地方太平洋沖地震が発生してから2週間あまり。
3/26時点で、死者は10,489人、行方不明者は16,621人と発表されている。
これは阪神淡路大震災のときの4倍以上の数字だ。

震災当日の報道で見た、津波が町を飲み込んでいく光景は、何かCGを見ているようで現実感がなかったが、津波というものがいかに恐ろしく、絶望的なパワーを持っているのかを思い知らされる映像であった。

7年前の 福井豪雨の際、ものすごい勢いで川が流れ、氾濫寸前(一部氾濫)になっているのを目の当たりにしたが、あの水の圧力が町全体を襲ったのかと思うと、とてつもない事態だと想像できる。

復興できます、がんばりましょう、と言葉で言うのは簡単であるが、家や家族を失った被災者の方々が、どれ程の絶望と悲しみを背負っているかは、想像を絶するものであろう。

震災直後、連日の報道を見ていた頃、考えをめぐらせていると、最終的にはどうしても『自分は同じような災害に見舞われた際、家族を守ることが出来るのか』ということに行き着いてしまう。

2歳の長男、4ヶ月の長女をいかにして守ってやるか、そのためにはどうのような備えが必要か、思いはそこにたどり着く。

自宅は、海岸からは20Kmほど離れており津波の心配はいらないと思われるが、1Kmほどのところに大河川が流れており、氾濫しないとは限らない。もしくは地震により、近辺が火災に見舞われる可能性もある。

そういった不測の事態に備えて、迅速に適切な行動が取れるよう、常日頃から準備しておこうと強く思った。


ところで、昨日、ザックジャパンとJリーグ選抜によるチャリティーマッチが開催された。
その試合で、もはや日本サッカー界のレジェンドである、キングカズが千両役者振りを発揮し、見事なゴールとカズダンスを披露したが、あれこそが本物のスーパースターの姿であると確信した瞬間であった。

あのゴールはどれほどの価値があったのか、経済効果はどれくらいになるのかを、誰か試算して欲しい。

自分に出来ること、自分の仕事を精一杯やることが、被災地および日本全体の復興への最大の貢献なのだと教えられた気がした。

まことに微力ながら、私なりに出来る範囲で、義援金含め、支援をしていきたいと思う。
posted by saiyajin 16:11comments(0)|-|





BIRTH

たった今長女が産まれました。
陣痛が始まってから3時間程度。
長男のときの10分の1以下の時間で産まれました。

ひとまず、おめでとう。わが娘。
posted by saiyajin 23:52comments(0)|-|





取立山登山

本日、天候 曇り時々雨。
友人と勝山市の取立山(1307メートル)に登ってきました。

コースは大滝ーこつぶり山ー取立山と、大体5kmくらいの行程。
大滝までは平坦な山道で、20分ほどで到着。意外と立派な滝で、20メートル以上の落差があったように思いました。先日の大雨で水量も多く、なかなか迫力がありました。

大滝からは岩場をよじ登り、こつぶり山登山へ。
小休憩を入れながら、1時間30分程度でこつぶり山登頂。
ガスが出ており、景色はいまいちながらも、うっすら白山が見えました。
15分ほど休憩の後、取立山へ縦走。

20分ほどで取立山山頂へ。
記念撮影の後、持参したパンを食べました。
しばし休憩後、下山。足が痛くなり、また腹痛にも見舞われ、休憩しながらでしたが、1時間ほどで下山しました。

2年ぶりの山登り、普段まったく運動していないせいか、予想よりだいぶキツかったです。雨が降ったせいで、道が滑りやすくなっており、何度もこけそうになりました。
また、蛇(アオダイショウ)に何度も遭遇し、その都度ビビりました。

頂上での眺望には恵まれなかったものの、久しぶりに大自然とたわむれ、リフレッシュできた気がします。

ただ、体力の低下ぶりには少なからずショックを受けました。
今年は何とか登頂できましたが、来年もどこかの山に登れるように、体力づくりに励もうと決意した次第です。

以上、登山レポート2010秋でした。
posted by saiyajin 16:38comments(0)|-|





娘が

もう2週間ほど前の話ですが、39回目の私の誕生日でした。

誕生日も39回目ともなると、はっきり言ってどうでもいいというか、自分のことながら興味がないというのが正直なところ。
でも、来年には40歳になるわけで、もう40年近くも生きているのかと思うと、なんか人生って長いようで短いと、しみじみと思う今日この頃。

また、お祝いをしてくれた妻には感謝。プレゼントにメガネを新調してもらいました。今まで傷だらけで見にくかったのが、はっきりモノが見えるようになりました。40歳までの残り1年、30代で見える景色をこの目に焼き付けておこうと思います。

それにしても今年の夏は暑いですなあ。
夜もエアコン点けっぱなしで、1歳の息子は大丈夫かとふと思ったりするのですが、別に大丈夫なようで、毎日元気に部屋の中を走り回っています。また、とにかく寝相が悪く、寝ながら父親を蹴飛ばしたり、寝返りを打ちながら占有場所を拡大したりで、朝になる頃には、どちらかの親が布団の外、部屋の隅に追い出されている始末。
ようやく立って歩けるようになったのが、7ヶ月ほど前。幼児の成長は早いものだと感心します。

そして、あと3ヶ月もすると、娘が生まれる予定です。
今は名前を考え中です。
posted by saiyajin 00:30comments(0)|-|





息子の誕生日

12月5日は息子の満1歳の誕生日である。
1年前、30時間以上の難産で産まれた涼太郎も、すくすくと育ちはや1歳。いやはや、感無量である。

当日は写真撮影などいろいろ予定していたのだが、記念すべきセレモニーになるはずだった日は、様々な偶然から予測不能な事態に陥ることとなる。

話は12月2日に遡る。
その日は全日本プロレスの興行が地元で開催されており、長州、武藤、高山などのビッグネームが出場するという。私は職場の後輩達に誘われるまま、20年近くぶりにプロレス観戦に行った。

試合内容はといえば、地方興行らしく、熱のこもった試合は少なかったが、長州や鈴木みのるといったスター選手に直に触れることもでき、概ね満足して帰路に着いた。

翌日、全日のHPには、2名の選手が新型インフルエンザで欠場との告知。その2選手は確かに前夜出場し、入退場の際、直に触れたりもしていたが、その時は特に感想はなかった。

さらに翌12月4日、その日は会社にて季節性インフルエンザの予防接種が行われていた。
接種前の検温をする。36度2分。平熱である。迷わず接種を受ける。

接種して数時間後、体調がおかしい。
検温してみる。37度ちょうど。
予防接種の副反応で微熱が出ることがあるらしい。あまり気にせず仕事を続ける。

さらに数時間後、再度検温。37度5分。
体調はだいぶ悪く、筋肉痛まで出ているが、まだ微熱の範囲である。

帰宅。咳が出るようになったのでマスクを着けた。日付が変わった。ハッピーバースデイ、涼太郎。無邪気にはしゃいで、父親のマスクに触れようとする。触らせてはいけない。母親に預けて、布団をかぶって寝た。

誕生日当日。昼過ぎに義母を迎えに行き、写真撮影に行くことになっていたが、私は体調が悪化しており、留守番をすることとなった。

妻が息子を連れて出かける。5分後妻から電話。
「事故った・・・」
免許を取得して以来、無事故を自慢していた妻であったが、よりによって息子の1歳の誕生日に初事故を起こしたのである。
幸いにも事故の程度は軽く、相手側の過失によるところが大きかったようだ。
事故の処理が一段落したという報告を聞き、私は眠りについた。

20時ごろ寝苦しさから目が覚める。悪寒がする。熱を測ると38度を大きく超えている。
これはもはや予防接種の副反応というレベルの話ではないのではないか。もしやモノホンのインフルエンザでは・・・!

妻達が帰宅し、夕食の鍋の支度を始める。義母は孫への誕生日プレゼントとして音と光の出る大きなおもちゃを買ってくれていた。

妻が鍋を取り分けてくれるが、食欲がなく、あまり食べられない。もしインフルエンザに感染しているのであれば、まかり間違っても息子への2次感染は防がなければいけない。
1歳の誕生日の親父からのプレゼントがインフルエンザウイルスなどということになっては洒落にならない。妻と息子は義母を送らせたついでに、義母のところにしばらく避難しているように言った。

その夜は激しい頭痛と熱にうなされ、大量の発汗により夜中に何度も着替えた。熱は38度の後半付近をキープしている。しかし、まだどこかで「インフルエンザなわけがない」と思っている自分がいた。あくまで予防接種の過剰反応ではないかと考えていた。

12月6日になると、頭痛は治まり、熱は37度台に。ずいぶんと楽になった気がする。やっぱりインフルエンザじゃなかったなーと思い、調子に乗って朝風呂に入ったらまた38度超にぶり返した。

その日は本来、息子を連れて実家に遊びに行く予定であったが、親には事情を説明し、私単身で世話になることとなった。炬燵で昼寝をし、雑炊を作ってもらった。いつもの風邪ならば、そろそろ熱は下がるはずだが、まだ38度を超えている。悪い予感を抱えたまま妻と子のいない自宅に帰り、着込んで寝た。

翌12月7日。5時に目が覚める。熱を測る。38度。このまま出社はできない。8時の受付開始を目指して、福井県立病院に向かう。

問診を終えると看護士さんが「お熱が高いようなのでこちらへどうぞ」と個室に通してくれた。しばらくして空気清浄機が持ち込まれた。この段階になると、インフルエンザへの感染を覚悟せざるを得ない。

9時半。診療開始。「なんらかのウイルス性の疾患ですね。予防接種が原因ではありません。」「新型だと6割か7割しか精度が出ませんけどね。一応やっときましょう。」インフルエンザ検査を行う。30分後結果が出る。A型陽性反応。やはり新型インフルエンザに感染していた。

会社の上長に報告と謝罪。出社できる状態になるまで有給休暇を頂くこととなった。またその際、一緒にプロレス観戦に行った後輩の1人がA型陽性らしいとの情報を得る。こうなると感染源はほぼ明らかである。

プロレスを観戦に行ったが、よもやインフルエンザに感染することになるとは。
そして己の誕生日に引き続き、またしても記念すべき日に体調を崩す羽目になるとは。

現在の私は、処方された薬が効いているのか、見違えるように快方に向かっている。妻と息子には今現在、症状は現れていないようだが、潜伏期間は1週間に及ぶ場合もあるとのこと。予断は許さない。

インフルエンザA型陽性を報告した際の、妻からの返信には次のような一文があった。

タミフルで 異常行動 せんといて
posted by saiyajin 20:21comments(2)|-|





今年の誕生日

8月16日は、朝から息子がミルクを嘔吐。
日曜日だったので、健康保険センターに受診に行くと、腸重積の疑いがあるとのこと。
そのうちに、自分の扁桃腺が腫れ、発熱。
夜、息子の嘔吐が酷いため、妻が救急窓口に連れて行く。
自分は熱が上がり、39度5分。
息子は胃腸風邪と診断され、点滴注射をもらって帰宅。
翌17日、熱が下がってきたら息子の胃腸風邪が遷ったのか、嘔吐、下痢の症状が出始める。
翌18日、病院に行き、脱水症状の診断で点滴注射。
その後、息子の体調は良くなり、自分も食事が出来るようになった。
posted by saiyajin 01:28comments(2)|-|